【前編】「日本沈没2020」語り~あなたの知らないポスト震災、宗教と大麻と日本のリアリティ~
NETFLIXでオリジナルアニメ作品「日本沈没2020」が公開された。
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監督に「ピンポン」「夜は短し歩けよ乙女」「DEVILMAN crybaby」「映像研には手を出すな」などの名作を精力的に世に送り出してきた湯浅政明氏を据え大手配信サービス故のほぼ無制約な表現、潤沢な予算を以て作り上げられた本作であるものの
twitterを始めとする世間的な評判はやや否多めの賛否両論。
日本沈没2020 全話見た感想 辛口かもしれません、見終わった直後の気持ち pic.twitter.com/EOJ9fwqvBI
— にゃっけー (@nyakesakuga) 2020年7月9日
日本沈没2020を5話まで観ましたがこの話はどこへ向かってるんでしょうか。 pic.twitter.com/9tvvrmhgBQ
— 8ronix (@8ronix) 2020年7月9日
【日本沈没2020】
— 深田萌絵 (@Fukadamoe) 2020年7月11日
ネットフリックスのアニメが最低アニメでした。
日本人は頭が狂ったカルトが金の為に銃撃、右翼は日本人だけを助けて外国人を見棄てる。
最後、日本と韓国は海の底に沈んで米軍も自衛隊も来ずに、ロシア軍に主人公が救われる。
否定的な意見は3分の1が「リアリティに乏しい」3分の1が「話が迷走している」そして最後の3分の1が「チャイナマネーで作られた反日アニメ」といったところ。
大日本帝国万歳
初投稿となる今回は、次々TLに流れてくる否定意見を流し見し、戦々恐々としながら拝見した「日本沈没2020」を語っていきたい。
ネタバレ込みなので、NGの方は先に本編をご覧ければと思う。
もちろんネタバレOKの方も、楽しむ余地は残してあるのでご安心して読み進めて頂きたい。本ブログはネタバレしか能の無いブログではないと自負している。
今回はまず「前編」として、本作のリアリティについて語っていこう。
1:「”要素のリアリティ”重視の作品」
初っ端否定意見に突っかかるような感想で申し訳ないが、本作は私にとって、そこそこのリアリティを感じられる作品であった。
それを語る前に「リアリティ」と一口に言ってもそこには様々な分類があると私は考える。
細かく分けていくときりがないので、取り敢えず2つに絞ろう。
1つは「要素のリアリティ」
現実世界に実在する要素を作品内に組み込む演出がこの「要素のリアリティ」である。実在する国家、組織、商品、サービス、科学技術や政治思想、それらを巧みに作品に折込むことで、現実世界との地続き性を持たせることを狙いとしている表現である。
2つは「行動(現象)のリアリティ」
こちらは現実世界における辻褄の合う「現象」や人々の「行動(心理とも言えよう)」に着目したリアリティである。このリアリティは現実世界と地続きではないファンタジー作品であっても通用するリアリティである。作中の展開が「ご都合主義的」と言われたり、登場人物が「サイコパス」だと言われたりする原因は、このリアリティの不足にあるのだろう。
そして本作において重視されているのは、1、つまり「要素のリアリティ」である。
それはタイトルに「2020」という、現実世界と同一の年号を加え、第一話で「東京五輪終了後」という現実世界と地続きのイベントを行っていることからも明らかだ。
というより、そもそもこういう現実社会を舞台とし、そのテーマの一部とした作品を作る場合、「要素のリアリティ」が真っ先に重視されることは致し方ない所であろう。
剣と魔法の世界を舞台に「ロードス島沈没」なんてやられても観客に緊張感は生まれない、架空だと分かりきってるから。
「要素のリアリティ」を突き詰めて表現した「今、ここで起きるかもしれない空想現実」こそが、「日本沈没」を名作SF足らしめている。本作における「リアリティ」の描き方は、概ね原作の表現意図をしっかり汲んた形で行われていると思うのである。
2:「分かる人には分かる、震災後の日本のリアル」
と、ここで視聴済み読者諸兄には疑問符が付くシーンがいくつか浮かぶだろう。
「不発弾で死ぬとかどうなの」
「大震災の最中にあんな平和な宗教団体なんてありえない」
「大麻をあんなに大規模で栽培できっこない」
「震災下での外国人差別はあんなにひどくない」
などなど…
だが、実はそれらの要素はよくよく調べていくと、現実世界に実際に存在する要素だったりするのだ。
まず不発弾であるが、昨年からの五輪の工事ラッシュにより、東京でも相次いで不発弾が発見され自衛隊によって処理されるという事案が多発している。
不発弾での死亡事故は珍しいものの、不発弾自体は珍しい物ではない。
自衛隊統合幕僚幹部の広報資料によれば、平成30年に処理された不発弾の数は1480個にも上る。我々が不発弾で死なずに済んでいるのは、自衛隊の方々の懸命な活動はもちろんであるが、単純に「運が良かった」からでしかない。
https://www.mod.go.jp/js/Press/press2019/press_pdf/p20190516_01.pdf
また、「不発弾」自体の象徴性もまた、本作の「要素のリアリティ」に与している。
第2次世界大戦という惨禍の爪痕、日本が背負っている負の遺産、それが地震によって呼び覚まされ、時を越えて牙を剥く。
本作のテーマの一つである「日本」を描く上で、否応にも直面することになる「戦争」という要素に出来る限り触れようとしたのが、第二話であると観ることも出来るかもしれない。
次に宗教団体であるが、2011年の東日本大震災の影響で、宗教、特に土着的な縛りが少ない新興宗教は、「脱原発」「環境保護」「自給自足」的な色彩を強める傾向にある。…と、あんまり具体的な詳細を記すと面倒なことになりそうなので具体的な事例は提示しないものの、ガチで太陽光発電バリバリにやってる宗教団体は実在している。
そして同時に、新興宗教やスピリチュアル系の人々の間で、「首都直下地震が起きても大丈夫」とされる場所がまことしやかに噂されるようになり始めた。
はっきり「そのためだ」と明示しないまでも、ちゃっかり本部を東京から地方へ移した宗教法人もある。しかも複数。
なんでそんな詳しいのか。
親戚がそういう組織の信者だから、否応にも耳にするのだ。
正直勘弁して欲しい。
なにはともあれ、そのようなオカルトチックな言説についての科学的信憑性は疑わしいものの、それを熱心に信じる人々によって、本作で描かれたような「リアル」が生まれたことは紛うことなき現実である。
そして本作において皮肉めいているのは、我々が小馬鹿にしている彼らの言説とそれに基づいた対策によって、我々と同じ一般人である主人公たちが救われたという点だ。
彼らがいなければ、主人公たちは間違いなく死んでいたはずなのだ。
本作おける新興宗教は、他のアニメ作品、特にポストオウム事件以降の作品で描かれる、洗脳と詐術に塗れた、国家転覆と金儲けしか考えていない新興宗教と異なり、ガチのマジの超能力者が人々の救済のために善意で設立した共同体として肯定的に描かれている。
現実社会でも、そういう新興宗教は少なからず存在しているはずだ。
国を失った人、職を失った人、社会の居場所を失った人、大切な人を失った人、彼らの拠り所として。
そんな表に出てこない「リアル」が、この作品では浮き彫りになる。
東京で刹那的な生き方をする一般人と、来るかもしれない大地震に対し真剣に向き合い、真剣に備えている新興宗教の信者。
果たしてどちらが「まとも」と言えるのだろうか。そんな問いかけが暗々裡に示されているように観ることもできよう。
次に大麻について。
2020年現在、一端の宗教法人があれだけ大規模な大麻畑を所有し、売買し、利益を上げている事実は無いと思う。が、それに肉薄する活動というものは現実に存在している。
日本国内でも公的に大麻の栽培許可を得て、相当規模の大麻を栽培している業者がそれである。
ていうか、その業者と首相夫人が懇意だったりする。
大麻解禁容認の議員も議席を持つようになり、メディアなどを通じて表沙汰になることはほぼ無いものの、日本において大麻の合法化運動や栽培活動というのは決して絵空事ではない。
ここで一つの疑問が浮かび上がってくる。娯楽用としての大麻が法律で固く禁止されている現在、彼らはなぜ大麻を栽培しようとするのか。
大麻合法化を主張する人々の意見としては、大麻は麻薬ではなく、様々な用途がある植物であり、本作でも登場した食品となる麻の実を始め、繊維製品、食用油、バイオマス燃料としての用途も見込め、二酸化炭素の吸収率も高く、地球温暖化対策にもなる……とのことらしい。
こういうのは「大麻」で検索しても出てこないのだが、「ヘンプ」で検索してみると結構見つかったり。
ここまでならば、「大麻解禁派の中には真面目にその有用性を主張している人もいるんだなぁ」程度の認識だが、大麻解禁にはもう一つ、宗教的、国粋主義的なイデオロギーという側面も有しているのである。
上掲した安倍昭恵夫人は、雑誌「月間SPA 2015年12月15日号」のインタビューおいて以下のように語っている。
大麻はただの植物ではなくて、たぶんすごく高いエネルギーを持っていると私は思うんです。『それは日本人の精神性にも関係している』という人もいる。日本古来の神様と結びつきがあって、伊勢神宮でも『神宮大麻』というものがあります。神道では、大麻は罪穢れを祓うものとされていて、天照大神の御印とされているんです。
戦後、占領下の日本でGHQが大麻を禁止したのも、単にマリファナというドラッグが広がるのを恐れたというだけでなく、『日本人の自然や神を敬う精神性を恐れて禁止したのではないか』という人もいます。何千年もの間、日本人の衣食住と精神性に大きくかかわってきた大麻の文化を取り戻したい・・・。私自身も大麻栽培の免許を取ろうかと考えたほどです」
確実に読み取れる事は、大麻解禁の動機には大麻を「日本文化」「神道文化」として再興したいという要素があるという事である。
そしてこの宗教的、イデオロギー的な要素が、昨今の「戦後レジームからの脱却」と称される戦前の日本文化の再興運動、そして上述した新興宗教やスピリチュアル(特にパワースポットに代表される神道系スピリチュアル)の環境意識と組み合わさって、ある程度の支持層が形成されつつあるのである。
故に、本作で描かれる「新興宗教団体が、大麻の大規模栽培を行っている」という描写は、上記のような現実社会の「リアル」を知っている人からすれば「恐ろしくリアリティのある」描写なのである。
しかしながら、一般人にとっては全く脈絡の無い組み合わせであることから、制作側との理解の齟齬が生じているのは否めない。
後半はみんなハイになりまくってたし、利益で金塊貯めまくってたし、大麻の薬物的、ダークな側面のみに終始してしまったようにも思える。
なお、昭恵氏と懇意だった大麻栽培農家は麻薬取締法違反で逮捕され、農場のある場所の町長は激おこプンプン丸で、厚生労働省は後に以下のような「大麻栽培で町おこし」を謳う業者に対しての注意喚起を行っていることは申し添えておこう。
https://www.mhlw.go.jp/bunya/iyakuhin/yakubuturanyou/taima01/dl/pamphlet.pdf
・「「シン・ゴジラ」のデモシーンと災害SFの視点」
最後に外国人差別については、あまり多く言う必要はないだろうと思う。
右派有識者からは「危機的状況なのに外国人を助けない日本人を描いている、ネガキャンだ」との意見もある、が、これについてはテーマとして「日本」を掲げる以上、「危機的状況下」という縛りで社会を捉えるべきではなく、現実社会に偏在する外国人に対する差別意識を描くべきとの選択であったと思われる。
また、グローバル化する社会において、アイデンティティを失いつつある日本人による、そのアイデンティティを顕示しようとする行為が外国人差別であると捉えるならば、それに輪をかけて「国土」までもが全て失われつつある「日本沈没」という状況下では、より自らのアイデンティティや優位性を保とうとする集団が現れても何らおかしくは無いだろう。
むしろ「日本沈没」が単なる災害SFパニック物として消費されない理由は、ここに集約されている。
「国土」を失い、「主権」は事実上無力化し、国としての形態を保てなくなった日本において「日本人」はどうするのか。
そこに切り込むにあたって単なる美談で終わってしまう「助け合い」の描写はともすれば不純物足りうる危険すらある。そのような取捨選択があった故の表現であると私は考える。
また、私がこのように擁護する理由はもう一つある。
本作と同様、名作大規模災害パニックSF作品の正当進化であり、高い評価を得た
私もそのアイデア、映像表現、メッセージ性を高く評価しているが、その中で私が最も嫌いなシーンが一つあった。
たった数秒のそのシーンは、
「人々が首相官邸前でデモ活動をするシーン」である。
演出意図としてはデモ活動を皮肉っているのだと(雑な)理解はできるものの、「流石に首都に超巨大怪獣が現れて大パニックに陥っているのに、あんな規模のデモ活動なんて出来っこないだろ!」と感じてしまったのだ。
対象は違えど上記の外国人差別描写に対する不満とほぼ同じ理由だ
しかしながら、これも「災害の中」という括りではなく、現実社会に存在する、「国難に際して無責任に喚く人々」を描くべきという選択による演出と解せば腑に落ちる。
本作も、同様のスタンスで解すべき作品である。ということなのだろう。
以上、自分の出来る範囲で本作の要素の検証のようなものをしてきたが、この前編でで言いたいことを総括するとするならば、以下の通りになろう。
災害を描く作品を鑑賞する時、我々は往々にして、その災害における人々の常識的な行動という「行動のリアリティ」に注目しがちである。
「自分ならこんな状況ではこうする」ということを想像しながら鑑賞する故に、その想像と眼の前の映像との整合性が気になってしまう。
しかし、災害を描く作品は「災害のみを描く作品」ではない事も同時に心に留めておく必要もあるのだろう。
「行動のリアリティ」にそぐわない描写は、それを犠牲にしてでも描くべきと考えた「要素のリアリティ」が描写されている可能性がある。
それを読み解いていくことで、作品を楽しむ幅は広がり、作品を深く理解することに繋がるのだと思う。
……もちろん、「行動のリアリティ」と「要素のリアリティ」を両立させることに失敗していると言ってしまえばそれまでなのかもしれないが。
本作は多少パッチワーク的ではあるものの、その内容は至って「現代日本」、「ポスト震災の日本」に即して描かれていると私は思う。
今から鑑賞する人も、多少引っかかりを感じて不満に思う人も、その中の一つ一つの要素を深く知ろうとすることで、あなたの知らない、そして、知るべき日本の姿、日本人の姿というものが見えてくるはずだ。
前編は以上で締めとさせて頂き、後編では本作のストーリー展開や、湯浅監督らしい演出について、その賛否を容赦なく語っていき、最終的な評価を示したい。
ではまた。
この作品の発表から、時代も、文化も、社会も、人々も変わった
国土だけが、未だ変わらずにある。